経験談>いち浄土真宗宗徒として宗教を考える・中編
この記事から続いています。
※前編は「である調」で書きましたが後編はこちらも「ですます調」で書いています。
意図的にやっているので、ツッコまないでくださいね。
前編のおさらいと補足説明
ここからが体験談(実話)
叔母 「お位牌を作っていただきたいんですが」
女性僧侶「浄土真宗では、お位牌は必要ございません」
ええっと驚く叔母。
というのも、浄土真宗以外の宗派ではだいたいこう言うから。
故人の魂はお位牌に宿ります。
お位牌がないと、故人の魂がご自宅に帰ってくることができません。
お位牌は故人を思い出すための単なる記念碑ではありません。
故人の魂を宿す欠かせない存在であり、必ず作る必要があります❗️
そして「位牌に刻むために」戒名が必要と言い、お金を出すほど立派な戒名が授与される仕組になっています。
中には立派な戒名(=高い)ほど追善(死者の悪業を軽減し、あるいは除去すること)が進み、故人の霊が早く成仏できる(極楽に行ける)ようなことをほのめかして、その分高いお布施をゲットする坊主もいるようです。
もちろんお位牌も立派なものほど高くなります。
わかりやすい資本主義。
しかし浄土真宗では、故人の魂は亡くなるとすぐに成仏すると考えます。
一人の例外もなく平等に極楽浄土に行き、仏になります。
仏は人よりも高位の存在なので自分の意思でいつでもどこにでも行くことができます。
生前の我家を訪ねるための憑代(よりしろ)など必要としません。
私もこのへんはあらかじめ調べて叔母に説明していたんですが、叔母は聞き流していたんですね。
付け加えれば、そもそも位牌も戒名も仏教伝来後の中国で独自に誕生したものです。
仏教本来の風習でも何でもありません。
しかし叔母は位牌も戒名も絶対必要とする宗派の家で育ってますので理解が追いつかないようです。
叔母「でも、でも、お位牌がないと、何を拝めばいいのか・・・(オロオロ)」
僧侶「もちろんご遺族様のたってのご希望があればお作りします」
叔母「お願いします。では、次に戒名のお値段のご相談を・・・」
僧侶「ご法名ですね。いわゆるランクはありません」
※親鸞上人の法名ですら『釈親鸞』です。
叔母「そこをひとつなんとか!!」
※戒名(かいみょう)とは、仏の弟子としての名前という意味です。
戒名を得てまず仏の弟子になり、戒律を守り修行に励んだ末に成仏できると言います。
一方浄土真宗には戒律自体がないため法名(ほうみょう)と言います。
叔母は結局初志貫徹。
位牌と院号付きの法名をゲットできました。
そしてこぼしました。
叔母「あれも要りません、これも要りませんって言われて、ホント困ったわ❗️お金がないと思われてるのかしら❓ってもつい思っちゃった」
私 「じゃあ、〇〇をしないと故人が成仏できませんよ、もっとお金をかけないと故人はずーっと地獄の亡者ですよ、って言われた方が良かったの❓」
叔母「えええ、ヤダ❗️でも、あそこまで何も要りませんって言われると張り合いがないのよう💧」
私 「どこかの新興宗教みたいに、信じない人は地獄に堕ちますとか言われたら張り合いが出る❓」
叔母「それは絶対イヤ❗️」
お金のない人が罪悪感を感じる必要がなく、お金のある人はそれでも❗️と押せば応じてもらえる。
私には理想的(合理的)に感じるのですけど、皆さまはどうお感じになりますか❓
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