今日は何の日>5月25日:食堂車の日・黄粱一炊の夢
今年はこちらをご紹介します。
食堂車の日
1899(明治32)年、私鉄・山陽鉄道(現・JR西日本山陽本線)の京都駅~三田尻駅(現・防府駅)間に日本初の食堂車が走ったことにちなむ。
食堂車は急行の一等車両に連結され、一等車・二等車の乗客専用。
三等車の乗客は利用できませんでした。
メニューは洋食のみだった。
当時は鉄道よりも船(瀬戸内海を走る客船)のりふょ右脚の方が多かったため、乗客獲得のアドバンテージとして導入されました。
食堂車は昭和に全盛期を迎えますが高速鉄道の登場による乗車時間の短縮その他の理由で次第に数を減らし、現在では観光列車にしか残っていません。
東海道新幹線では1975年の食堂車導入以来ずっと16両編成の8両目が食堂車の定位置でした。
ど真ん中に配置されたのはもちろん、1号車の乗客と16号車の乗客の移動の手間を平等にするためです。
しかし2000年3月のダイヤ改正で全廃されました。
こう書くと「安くなった飛行機に客を奪われて採算が立たなくなったんでしょww」とおっしゃる方がいますが、全く逆のようです。
利用客の増加で座席数を増やす必要に迫られ、食堂車は客車に置き換えられたと言われています。
しかし別の説を唱える人もいます。
食堂車が成り立たなくなったのは、特急列車に自由席を増やしたためだと。
自由席の乗客が食堂車に行くために席を立つと、空いた席には立ち乗りしている人が座ってしまいます。
席を明け渡したくないために自由席の客はワゴン販売でお弁当を買い、食堂車には行かない。
代わりに食堂車に行くのは自由席に座りそびれたため食堂車で座ろうとする乗客。
しかしそもそも指定席料金をケチってそうなった人が多いのだから、食堂車でも安いものしか注文してくれない。
そしてなるべく座っていたいから粘る。
この悪循環で食堂車が儲からなくなり、減少していったのだという説です。
おそらくこれらの要素が全て絡まりあったのでしょう。
在りし日の山陽新幹線食堂車画像は朝日新聞デジタルより。
<黄粱一炊の夢(こうりょういっすいのゆめ)とは>
栄枯盛衰は黄粱(きび)を炊く間(短い時間の比喩)に見る夢のように、はかないものであるという意味のことわざ。
邯鄲の夢(かんたんのゆめ)とも言う。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。