映画評:女神が惚れた男と女神に惚れた男②「オットーという男」
この記事から続いています。
「オットーという男」では、主人公オットーの生い立ちと妻ソーニャとの出会い部分がずいぶん大きく改変されています。
- オットー母は映像として出てこない。父もほとんど出ない。
- オットー本人が「母のことは覚えていない、父は何年も前に他界」と台詞で自己紹介するのみ。
- オットーは父の仕事を継いでない。(代わりに名前を継いでいるとこれも自己紹介の台詞で流されるのみ)
- 小学生くらいの頃から清掃員として働いていたエピソード※₁は全削除。
- 父親が目の前で事故死(職場内での列車事故)した※₂悲痛なエピソードも全削除。
- 地上げ屋に家を焼かれて奪われた(土地は借地だったのか?)悲痛なエピソード※3も全削除。
※₁児童労働は、アメリカでは倫理(児童福祉法)的にマズイのかもしれません。
※₂観客には労災死に当たるように見える父の死は、アメリカでは遺族に死亡慰謝料が下りることになり、オットーが貧乏という設定との齟齬が発生してマズいのかもしれません。
※3家の火事のエピソードも(以下同)。
子供時代のエピソードを9割省かれたオットーは、ほとんどいきなり高校を卒業したくらいの姿で登場。
軍の入隊検査(健康診断)を受けて内部疾患が発覚して不合格。
失意の帰途でソーニャと出逢います。
バックグラウンドエピソードの消失により、青年オットー像はオリジナル版の青年オーヴェ象よりも輪郭がぼやけたものとなり、共感度がかなり低下しました。
あくまで私の場合ですが。
また2人の出逢いの大きな違いは、オットーがソーニャに一目惚れしたことになっている点でしょう。
(前記事で書いた通り、オリジナル版では明らかにソーニャがオットーに一目惚れしている)
- 失意のオットーは、何故か突然向かいのホーム(遠いぞ)を歩く若い女性に目を奪われる(目が良いな)。
- 彼女は本を落とすが、気づかない。
- オットーはこちら側のホームから大声で落とし物を知らせるが、彼女は気づかない。
- 自分の乗る電車が来たのも構わず、地下通路を通ってわざわざ反対側ホームに行き、本を拾うオットー。しかし女性はもうホームにいない(電車に乗った後)。
- 自分が帰る方向とは反対行きだとわかっているその電車に乗り込み、発車したのも構わず車両を移動しながら彼女を探し出して、本を渡す。
単なる「親切な人」の範疇を軽ーく振り切ってます。
財布とか身分証などのいわゆる貴重品かならともかく、本一冊にそこまでやるか?
恋心が発動してなければ、ここまではやらぬ。
しかし先にオリジナルの「幸せなひとりぼっち」の方を観ていた私は、お尻がムズムズしました。
念のために「幸せな…」を再度見返すと、再度「オットー」の方にムズムズしました。
若い頃のオーヴェは気弱で実直で、幼い頃から働いて苦労を重ねている割には世間知らず。
正義感は強いものの、どこかおどおどと生きているように描かれています。
その気弱な青年が、ソーニャとの結婚とその後2人を襲った幾多の不幸で鍛えられて、40年後には立派な頑固ジジイ(でも根は優しい)になったというのがこの話の骨格ではなかったのか。
オットーは最初から行動力がありすぎて、いかにもアメリカンなのでした。
オットーが向かいのホームなどという遠方から、初めて見る女性ををそこまで見初めたというのも、少々不自然に感じられました。
ダチョウ並の視力※だよ。
あくまで私の個人的な意見です。
※鳥の視力の話はまた別記事で。
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