荻外荘(近衛文麿旧宅)<前編>:荻窪~高井戸散歩其の❷
この記事から続いています。
荻窪駅西口から2つ目のバス停「荻外荘公園」でグリーンスローモビリティを降りました。
手前芝生も近衛文麿旧宅の敷地。
奥に見える重厚な平屋が杉並区立国指定史跡・荻外荘(てきがいそう)です。

平屋って実は贅沢なんですよね。
同じ部屋数なら二階建てより敷地(土地)を使うから。

パンフレットの紹介文が簡潔でわかりやすいので飲用します。


青地部分はエンドウの書き足した補足です。
荻外荘は、東京大学医学部教授にして大正天皇の侍医頭も務めた医学者・入澤達吉(1865~1938)の別邸「楓荻荘(ふうてきそう)」として、入沢の義弟であった建築家・伊藤忠太(1867~1954)の設計により1927(昭和2)年に建てられました。
政治家・近衛文麿に(1891~1945)に譲渡されたのは1937(昭和12)年のことでした。
荻外荘(てきがいそう)の名は、近衛の後見人であった元老の西園寺公望(1849~1940)が命名したものです。
昭和戦前期の政治の転換点となる重要な会談が数多く行われた場所として、2016(平成28)年3月に国の史跡に指定されました。
下左の、何となく昭和天皇(故・裕仁陛下/下右)と間違えてしまいそうな風貌の人が故・公爵近衛文麿です。


近衛家は聖武天皇(701~756)の外祖父・藤原不比等(659~720)の直系の血筋です。
「藤原」は不比等が天智天皇から下賜された姓で、不比等の直系子孫だけが名乗りを許されました。
時代が下り、藤原基実(もとざね/1143~1166)が京都の近衛大路に面した近衛殿を邸宅としたことから「近衛」の家名を名乗るようになりました。
皇族以外では一番天皇の血筋に近いと言われた名家で、明治維新後は公爵位を与えられました。
明治維新で決まった華族数は309家、そのうち公爵家はわずか11家でした。
(後に何やかやで華族総数・公爵家数共に若干増加)
文麿は京都帝国大学を卒業し、わずか25歳で貴族院議員として政治家になります。
そして内閣総理大臣を3期務めましたが、運悪く3期目に太平洋戦争が勃発。
終戦後、責任を追及され、阿求戦犯として起訴されてしまいます。
巣鴨プリズンへの出頭を命じられた最終期限日の1945(昭和20)年12月16日早朝、荻外荘の書斎(和室)で服毒自殺。
54歳でした。
日本の歴代内閣総理大臣経験者では現在でも最も若い死亡年齢であり、また唯一の自死者です。
※他殺者は7名。


私が杉並区民になった頃、この家はまだ人が住んでいる民家だったんですよね。
住んでいたのは文麿氏の次男・近衛通隆(みちたか)元東大教授(1922~2012)です。
その方が2012(平成24)年に亡くなると、翌年には杉並区が早くも買取の名乗りを上げ、その翌年本当に買取理を実行。
この時ばかりはお役所仕事ではなく、素早かった。


買取の翌年、2015(平成27)年からは行動に面した庭の一部が荻外荘公園の名称で一般公開されます。
その翌年、2016年(平成28年)3月1日には「荻外荘(近衛文麿旧宅)」の名称で国の史跡に指定されますが、家屋はそれから何年もずっと復元工事中でした。
それがようやく昨年末に完了し、2024(令和6)年12月から一般公開されたのでした。



荻外荘(近衛文麿旧宅)<後編>に続きます。


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