今日は何の日>1月25日:左遷の日
昨年は「美容の日」をご紹介しました。
今年はこちらをご紹介いたします。
左遷の日
901(延喜元)年1月25日(旧暦)に時の右大臣だった菅原道真が九州の大宰府に左遷されたことにちなむ。
時の左大臣・藤原時平が醍醐天皇に道真の悪口を吹き込んだためと言われています。
右大臣は左大臣(今で言うと内閣総理大臣)の補佐職なので、いわば副総理です。
つまり副総理の才能を妬んだ総理が天皇に副総理の悪口を吹き込み、天皇がそれをすっかり信じてしまって副総理を九州に飛ばした、というわけですね。
道真の祟り
菅原道真は失意のまま2年後の903(延喜3)年2月25日に58歳で亡くなりました。
その6年後の909(延喜9)年に道真を陥れた藤原時平が39歳の若さで病死。
「道真の怨霊の仕業」という噂が立ちます。
更に5年後の914(延喜23)年には、醍醐天皇の皇子で東宮(皇太子)だった保明親王(藤原時平の甥でもあった)が21歳で死亡(死因は史料無し)。
再び「道真の怨霊の仕業」という噂が立ちます。
慌てた朝廷は、道真を従二位大宰員外帥(左遷後の官職名)から右大臣(左遷前の官職名)に戻すと発表し、正二位を贈ります。
死後の名誉回復です。
それから暫くは何事も起こらなかったのですが、決定打が打たれたのが930(延長8)年。
朝議の真っ最中(今で言うなら天皇も臨席しての国会開催中)の清涼殿(御所の中でも政治の中心部分)に落雷。
大納言(右大臣=副総理の次の官職。今で言うと官房長官?)藤原清貫が即死。
清貫は、かつて藤原時平に命じられて左遷中の道真の監視役をしていた人物でした。
他にも多数の朝廷要人に死傷者が出ます。
「清涼殿落雷事件」です。
落雷画像はニューズウィークよりお借りしました。
醍醐天皇は被雷こそ免れたものの、惨状を目撃したショックで寝込みます。
今で言うところのPTSDですね。
そしてそのまま3ヶ月後に死亡してしまいます。
これが決定打になって世間に「道真の怨霊」説が広まりました。
947年(天暦元)年、朝廷は道真を北野天満宮に神として祀ることを決定します。
世の人事権を持つお偉い皆さま。
安易なリストラや左遷、降格人事に気を付けましょう。
太宰府天満宮画像は公式よりお借りしました。
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