「花が散る」を花の種類によって言い分ける日本語の情緒過多(でも好き)
桜は花弁がハラハラと落ちるので「桜が散る」と表現されます。
椿は花が原型を保ったまま、花芯ごと一気にボトッと落ちます。
ゆかしい日本語ではこれを「椿が落ちる」と表現します。
では牡丹はというと、花芯を残して花びらが一斉にバサーッとと落ちます。
これは「牡丹が崩れる」と表現します。
同じく梅は「零(こぼ)れる」。
朝顔は「萎(しぼ)む」。
菊は「舞う」
花の種類によって終わりの形容詞まで使い分けるとは、牡丹と芍薬が同じに見える西洋人にしてみればさぞクレイジーな言語なんだろうなあ、日本語。
話が飛びますが、世界中で翻訳されている「源氏物語」。
登場人物のひとり「花散里(はなちるさと)」、英語訳だと「The Orange Blossoms」なんですよね。
みかんの花は大好きですが、情緒ってものがナッシングアットオールに感じてしまいます。
「夕顔」なんて「Evening Face」。
え?夕顔の花じゃないの?って思いますが、英語で夕顔はbottle gourd。
どっちにしても情緒なんてものはない。
脱線が過ぎました。
本題に戻ると、こういう言い回しも何かで聞きかじったことがあります。
「桜散る、零(こぼ)れる椿落つ、牡丹崩れる人は逝く」
画像は上からウェザーニュース、肥後細川庭園(東京都文京区)、ニッポンcomよりお借りしました。
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