名護屋城と唐津城(別名舞鶴城)の話
本日の「今日は何の日」の流れです。
名護屋城(なごやじょう)※名護屋城とは全く別物
大陸出兵の前線基地として朝鮮半島への直線距離が玄界灘を隔てて最短である肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に築いた城。
日本全国でも同じ秀吉が築いた大阪城に次ぐほどの規模を誇ったそうです。
豊臣秀吉が全国160家の戦国大名を招集し、一時は人口10万とも20万とも言われるほどに至ったと言われます。
しかし秀吉の死によって大陸侵攻が中止されたために城は廃城。
建物は肥前国唐津藩初代藩主・寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わります。
唐津城(舞鶴城)
「舞鶴城」の別異名を持つほど優雅な外観を持つ唐津城。
九州出身のわたくし、学生時代は6万石ほどの小藩の城にしては優雅すぎるなあと思っておりました。
秀吉が築城した名護屋城を移築したものというなら納得です。
秀吉はここぞという場面では金に糸目をつけてませんから。
☟今は「舞鶴公園」として残る唐津城全景。
天守閣。
初代藩主・寺沢広高
寺沢広高は尾張の国生まれの戦国武将です。
豊臣秀吉に仕えて肥前国唐津6万石を拝領。
後にの朝鮮出兵での軍功により2万石を加増されます。
しかし目端の効く人物だったようで、関ヶ原の意戦いではちゃっかり東軍(家康側)に付き、家康から飛び地領とし天草4万石を拝領。
計12万石の城主におさまります
しかし、この天草拝領があだとなりました。
広高の息子堅高の代になって天草の乱が勃発。
責任を取らされて堅高は自害。
寺沢家は断絶。
結局、天草は幕府直轄領となります。
一方唐津藩は、寺沢家断絶後何度もコロコロと領主が変わります。
まだ弱冠19歳だった水野忠邦(後に老中になって天保の改革を行ったあの人)が入ったこともあります。
しかし長続きせず、というか、出世の野心の強かった忠邦は中央に戻りたがり、自ら浜松藩への転封を願い出てさっさと唐津を出て行ってしまうありさま。
何人目かの小笠原長昌でようやく安定し、幕末まで続きます。
明治になって廃藩置県で佐賀藩35万石と合体され、佐賀県になり現在に至ります。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。