〇〇君へ;出る杭は打たれるものだから気にせず不老不死を研究して成果を出してください
数年前のことです。コロナ前だったと思います。
とあるギフテッドの子供(日本人)を紹介した記事を読みました。
その子は報道時点では確かまだ小学生で
「人間の寿命に興味があり、将来は不老不死の研究をしたい」
といったようなことを答えていました。
それに対してのコメントが…まあ悪評高いヤフコメでしたから高尚さなどはハナから求めていませんが、それにしても酷いものでした。
「この子はわかってない。寿命に限りがあるからこそ人は頑張れるのだ」
「不老不死などが実現したら人生は逆につまらなくなる」
「せっかくの才能はもっと有意義なことに使うべきだ(環境問題とか)」
といった感じの批判的コメントの数々が上位を占め、私は背中にうすら寒いものを感じました。
「命には限りがあってこそ輝く」というのはよく言われる決まり文句です。
しかしそれを言うなら、太古の昔人間の寿命は10代でした。
諸説がありますが、例えば「寿命図鑑」(いろは出版・2016年)では日本における旧石器時代から縄文時代にかけての平均寿命は15歳だったと言っています。
上に挙げた批判的コメントが正しいとするならば、人生15歳の頃の人類は現在の人生80歳の人類よりも単純計算でも80÷15=5,33333333倍ほど、楽しく充実した人生を送っていたはずです。
孫の顔が見ることができる人など稀だったに違いありませんが、限りがあればあるほど充実するのですから、孫の顔など全くたいした問題ではないんでしょう。
これが平安時代になると30歳(ただし貴族)となるそうです。
つまり恋愛沙汰にお忙しい平安貴族様は、竪穴式住居に住んでいた縄文人の半分しか人生が充実しなくなったことになります。
早婚でしたから孫の顔はギリギリ見れたでしょうけど。
しかしそれでもまだ現代人より80÷30=2,66666倍ほど、楽しく充実した人生を送っていたはずですね。
ならば上のような小学生批判をせっせと書き込んだ、いい歳したおっさん達(ヤフコメは男性比率が非常に高いと聞きますし、上に挙げたものは文体等も男性ぽかったのでそう書いています)は、いったい何故…(差し障りがあるため自主規制)。
結局、皆「自分が基準」なんですよ。
その子がコツコツと研究を続けて、不老不死は無理としても人類の健康寿命を150歳くらいまで伸ばすことに成功したりした日(数十年後)には「自分はもう生きていない」から悔しいんですよね?
自分は80歳で老いさらばえて死ななきゃいけないのに、自分の次もしくはその次あたりの世代から突然「人生150年」「年寄と呼ばれるのは100歳を過ぎてから」になったら、妬ましくて妬ましくて、実現させたくないんですよね?
はい、私は性格が悪いのでそう読みました。
15歳(縄文時代)➡30歳(平安時代)➡50歳(江戸時代~昭和の戦前まで)➡80歳(現在)
と伸びてきた寿命に自分はギリギリまでしがみつくのに、次の世代がそれ以上伸びるのは「人生がつまらなくなるぞ」って。
単なる自己中です。
私は多少なりとも恩恵にあずかりたいので、その子が無事に医学者になって人類の健康寿命を150歳くらいまで伸ばすことに成功するその日(数十年後)までは何としてでも長生きをしようと決意しています。
名前忘れちゃったけど(おいこら)あの子には頑張ってほしいです。
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