「邯鄲の夢」(沈既済):人生は一瞬の夢のように儚い
これらからゆるっと続いています。
沈既済(750年~800年頃※)は中国の唐代の歴史家・小説家です。
※日本は奈良時代。
小説「枕中記」(ちんちゅうき)の中の故事の一つ「邯鄲(かんたん)の枕」(或いは「邯鄲の夢」)は、後世に大きな文化的影響を生みました。
「邯鄲の夢」
盧生という名の若者が、人生の目標もないまま都に憧れ邯鄲(都の名前)に上京する。
そこで道士(道教の宗教者)呂翁と知り合い「夢が叶う枕」を授かる。
盧生がその枕で眠りに落ちると、みるみる出世して嫁を貰う。
冤罪で投獄され、失意の余り自殺を図るが失敗。
運よく処罰を免れ、冤罪が晴れて名声を取り戻す。
紆余曲折を経ながらも栄旺栄華を極め、多くの子や孫に恵まれ、幸福な生活を送る。
そのように50年ほどが過ぎ、老いた盧生は多くの人々に惜しまれながら眠るように生涯を終える。
ふと目覚めると、寝る前に火にかけた黄粱(粟)の粥がまだ煮えてすらいなかった。
全てはほんの一瞬の、夢の中の出来事だった。
人生のはかなさを悟った盧生は道士に礼を言うと、故郷へ帰るのだった。
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人生の栄枯盛衰のはかなさの例えとして使われます。
テーマやメッセージ性という点では「胡蝶の夢」よりもわかりやすいものだと思います。
なぜなら盧生は目覚めた時点で「一生分の栄枯盛衰の夢を見た」とはっきり夢を自覚しているからです。
一方「胡蝶の夢」の荘周は、目覚めた時点で「チョウの夢を見たのか、これがチョウの見ている夢なのかが判然としない」ままなのです。
しかし幻想好きの私は「胡蝶の夢」の方がより好みです。
乱歩先生に至っては「夢の方が真実だ」と言っちゃってます😎
何度か書きましたが私はバタフライフォビア(蝶恐怖症)です。
ですから、できれば「胡蝶(こちょう=チョウ)の夢」ではなく、
「蟷螂(とうろう=カマキリ)の夢」とか
「蜻蛉(せいれい=トンボ)の夢」とか
「空蝉(うつせみ=セミ)の夢」とか
…にしてくれないだろうかと子供の頃から思っていますが、変わる気配はありません。
ところで、この「夢が叶う枕」。
私はどうしても👇こういうものを連想してしまいます。
©藤子・F・不二雄
また「笑ゥせぇすまん」にも👇こういう話があります。
- 邯鄲の夢枕 (SP)
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©藤子不二雄Ⓐ
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