中野区散歩>明徳稲荷神社から宝仙寺
明徳稲荷神社から東へ230m徒歩3分で宝仙寺に着きます。
平安時代後期の寛治年間(1087~1094年)に源義家(八幡太郎)によって現在の杉並区阿佐ヶ谷に開基。
その後室町時代の1429年に現在地に移転したそうです。
そのまま阿佐ヶ谷にいてくださればよかったのに~~~と思ってしまう杉並区民でございます。
山門には仁王像。
本堂と三重塔。
三重塔は三代将軍徳川家光の治世の寛永13(1636)年に建立されたそうですが、惜しくも昭和20(1945)年東京大空襲で焼失。
平成4年(1992)年に元の塔の再現ではなく、奈良の法起寺(世界遺産)の三重塔を模した飛鳥様式で再建されたそうです。
江戸時代の中の村は徳川将軍家の御狩場(御鷹場)でした。
宝仙寺は鷹狩りに出た将軍の休憩所としても利用されたそうです。
また明治になると境内の中に中野町役場が置かれ、1932(昭和7)年に中野区が発足すると初代中野区役所として利用されたそうです。
現在は「中野区町役場の跡」の碑だけが残ります。
またここには「馴象之枯骨」(非公開)が保管されています。
享保13(1728)年にベトナムから日本に献上されたアジアゾウのつがいは、長崎から歩かせて運ぶ間にメスが病死。
オスは一時は見世物として大名たちを楽しませましたが、餌代が高くつくため、ケチ・・・もとい倹約化の徳川吉宗は寛保元(1741)年に中野村の百姓源助にゾウを払い下げてしまいます。
源助もまた見世物でひと稼ぎしますが、2年後にゾウは死亡。
骨と牙は源助に与えられ、転んでもただでは起きない源助はその骨と牙をまた見世物にして稼いだそうです。
源助の死後宝仙寺へ納められましたが、三重塔も焼け落ちた東京大空襲で一部消失。
焼け残った(黒く炭化した)牙は現在非公開で保管されているそうです。
吉宗の代ではなく、綱吉の代に献上されていればゾウももう少し厚待遇受けて長生きしたかもしれないと思うと複雑な気持ちになります。
ここからは北上して東中野に向かいました。
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